|
口上 ふじたあさや
もし島村抱月がスペイン風邪で死ぬことがなく、したがって松井須磨子が自ら死ぬこともなく、芸術座が昭和20年代まで存続したとすると、日本の演劇はどうなっていたか?
歴史に「もし」はないというが、こればかりは想像してみる値打ちがありそうだ。
小山内薫はあのあと当然芸術座で働いただろうから、築地小劇場を作る必要はなくなる。
そうなると、築地小劇場にはじまる、小山内路線もないことになる。二元の道などと唱えながら、経済のためと
|
はいえ、大衆に支持される芝居作りを推し進めた、抱月・須磨子路線が、新劇の主流になったにちがいない。とすれば、私たちが目にしたその後の新劇も、違うものであった可能性が大いにある。
歴史が書き変わったかも知れない彼らの存在を、そこにあった情熱を、あらためてたどってみたい。そんな思いで選んだ素材である。
須磨子をやりたがった後藤をいいくるめて、須磨子付の女中をやらせることにしたのは、女中の視点こそが、二人の位置を浮かび上がらせるのに有効だと思ったからである。
1970年代から、名古屋の芝居作りに関わってきた。何人もの俳優、いくつもの舞台の誕生に立ち会ってきた。正直言って、間尺にあわない仕事である。それを40年近く続けているのは、30数年前、名古屋の養成所の募集広告を持ち込んだとき、ある演劇雑誌の編集者から「へえ、名古屋にも劇団があるんですか?」と言われた、そのときの怒りがまだ燃えているからである。
だから、「田舎者だと思って、馬鹿におしでないよ!」という正子の台詞は、ぼくの台詞であり、多分同時に、間尺に会わない東京公演を実現しようと、悪戦苦闘している後藤好子の台詞でもあるのだろう。
須磨子もまた、そう思い続けていたに違いない、とぼくは思っている。
(2010年芸術祭参加公演パンフレットより)
|